第8回「いじめ・自殺防止作文・ポスター・標語・ゆるキャラ・楽曲」コンテスト
 作文部門・優秀賞受賞作品


    『 座禅をしてから』
        


                                           那田 尚史 

 私は小学4年生まで勉強はできるが気が弱く虐められっ子だった。

 母に聞くと下校の途中、帽子を取られて投げ捨てられて母に会うと泣いていたらしい。母は気が強い女丈夫だったので、「誰にやられた、私が見ているから苛め直せ」毎回そういわれたが怖くて出来なかった。
 小学4年生の時、母の勧めで警察道場に通うようになった。

 師範は元壮士(と言えば聞こえはいいが要するにヤクザ者)で、母が経営している高級料亭に来て、「誰の許可を得て商売をしているのか」と脅したが、母は「なんでお前の許可がいる」と強気に追い返した相手だった。

 その師範は古流の剣道を教えた。

 例えば闇稽古だ。道場の羽目板を全部閉じると真っ暗になる。そこで打ち合うのだが、相手が見えないので何処を打ってもいい。小手も胴も面もない、足を打ってもよかった。

 また、片方が竹刀を落とすと普通は「両者待て」と言って、落とした方が竹刀を拾って構えなおすまで試合を止めるのだが、その師範は「両者組み合え」に変えて、お互いが柔道のように戦い、相手の面を脱がした方が勝ちになった。これは実践を想定して、相手の首を刺したほうを勝ちにしたのだろう。

 私は母親方も大きな庄屋(苗字帯刀が許される)、父方は南朝の後村上天皇に仕えた荘園領主権地頭だったので、先祖の遺伝せいか、初めから間合いが分かり、気迫に押されて判定で負けることはあったが、一本も取られたことがない。

 小学6年になった時には愛知県西予市(町村合併の前は東宇和郡)の中でも3本の指に入っていただろう。

 剣道を始めだして徐々に気が強くなった。ある時、虐めっ子と河原で喧嘩の対決なった。一対一で対決する約束が、相手は卑怯にも仲間を2人連れてきて、しかも手に小石を持ちあったとたん私の胸に小石をぶつけた。しかし、それで相手も気が引けたのだろう。それ以来苛めは無くなった。

 またこれも小学6年生の時、仲間の一人が中学生に殴られた。仲間同士でその中学生を追いかけると、小学校のグラウンドにいた。話し合いでは全員が一斉に中学生に飛び掛かる予定だったが、みんなが怖がって誰も飛び掛かろうとしない。私だけが「年上の癖に年下を虐めるな」と言うと、お前だけが来い、と言われ中学生の前に私だけが立つと突然パンチが飛んできた。私は頬を背けてパンチを避け、相手の鼻を狙ってパンチを浴びせた。相手は鼻血を出して泣きだした。そこへ高校生が来て喧嘩を止めた。

 その後、映画のシーンのような不思議な儀式が始まった。

喧嘩の強い仲間から順番に握手を求めてきて「お前にそんな度胸があるとは思わなかった。俺が悪かった」と言われた。

 私はHPにあるブログで苛めを無くす方法と題して「虐められっ子は鉛筆削りでいいので、虐められたら相手ののど元に当て、今度虐めたら殺すと言え、相手は虐められっ子を見ると図に乗るのでそのぐらい脅さないと苛めが直らない」と書いたことがある。

 また私は高校生になった時、その高校ではカラーより下に髪の毛を伸ばしてはならないという学則があったが、教師に向かい「親からもらった体に手を触れるな。お前らは勉強だけ教えておけ」と言った。担任が弱り切り、私の父(明治生まれの小学校の校長で地元では教育委員会より権威があった)に事情を告げにきたが、父親は「それは息子の言い分が正しい」と答えたので担任は二の句が継なかったと聞く。

 これは孝教にある「身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり」を元にしているのだろう。

 また私が通っていた高校にはその名も怖い「血友会」という番長グループがあった。私は校則で許されていない革靴を履いたり、ガクランの第一ボタンを外して歩いていると、副番長からいつも体育館の地下にある更衣室に呼び出され、二度とこういうことをするな、と言われても辞めず、同じことを続けていたら、ちょうど10回目の呼び出しの時に、突然学生手帳を出せと言われて出すと、証明写真を破られ、血友会の名簿に貼られ「お前は今日から血友会の会員になった。これからは仲間だから何をしてもいい」と言われた。その副番長と言っても、小さな田舎町なので子供のころからの顔見知りだった。

 そこで「先輩、この会の番長は誰ですか」と聞くと、顔見知りの金澤さんだった。挨拶代わりに金澤さんの家に行くと、金澤さんは普段はおとなしい人でしかも美術部に入っていたので(私は剣道部)、抽象画を描きながら、

 「今度はいってきたのは君か、ここで煙草でも吸っていてくれ」

と言いながら抽象画を描いて、私に

 「この隅の色は何色がいいと思う?」

と聞くので私は

 「紫色がいいんじゃないですか」

と答えた。描き終わると私に向かい、

 「これからは仲間だから何をしてもいいし、困ったことがあれば私に相談しなさい」

と言われた。そこでまた副番長に、あんな大人しい人が何故番長なのですか、と聞きなおすと、小学生の時、金澤さんが苛めにあったとたん、椅子を振り上げて相手を殺しそうになるまで殴り続けたという。そこで、副番長(柔道部)が、あの人は怒ると何をするか分からないので、番長にして、私たちが代わりに喧嘩をすることになったと教えてくれた。

 こういう立場になった私は高校3年になるとウラバンになった。私はウラバン、同級生の一番喧嘩が好きなのを番長にして、血友会を続けていた。血友会と言ってもヤクザのように上納金を払うわけではなく、仲間が無免許運転のバイクで怪我をしたときに500円ずつ出し合ってお見舞いにする程度だった。その会は西南愛媛の10校以上が会員になっていたので500円でもかなりの金額になるからだ。

 あるとき、私がクラスメートの中で一番可愛い子をナンパした時、私の家の近くに住む宇和島東高校の血友会の先輩がやって来た。話があるから近くの神社まで来てくれと言うので行ってみると、実はその女はその先輩の彼女で私と二股をかけて交際しているのが分かった。事情を聞いて、先輩の彼女とは知りませんでした。私はあの女から手を引くので先輩が付き合って下さい、と言うと、先輩もお前も知らず付き合っていたのなら仕方がない、俺もその話を初めて知った。俺もそういう女なら手を引くと言って、私の煙草に火を付けてくれた。その男同士の話を聞いて、その女は涙を流したが、知ったことではないと思った。

 またクラス対抗のバスケット大会があったとき、同級生のある男が張り切りすぎて一番喧嘩の強い番長をマークして反則スレスレの妨害をしていた。試合が終わり、その喧嘩の好きな番長が私にあの男は誰だと聞くので名前を教えると、ちょっと体育館に呼んできてくれと言った。私は親友だったが、試合を見ていて同級生が悪いので、呼び出しをかけると、(ウラバンの役目は、呼び出しを掛けたり、喧嘩の仲裁に入る、いわば調整役だった)その喧嘩の好きな男と同級生が殴り合いになり、同級生の方が先に手を出すと、番長が頭に血が上り、相手を殴るだけ殴りつけ、床は血だらけになった上、殴られたショックで健忘症になり、救急車で運ばれた。

 その結果、番長は停学処分になった。停学中に遊びに行くと、お前が悪い、いや、あそこまで殴ったお前が悪いと言い争いになったが、仲間通しなので喧嘩にはならず、卒業してその番長が(若い時にこういう番長グループに入っていた人間ほど真面目な営業マンになっている)、一緒に酒を飲みながら昔語りに笑いながらその時の話をする。

 私は虐められっ子から逆にウラバンになった話をしたが、鬱病を克服した話をすることにしよう。

 私は中学1年生の時、太宰治の「人間失格」を読んで以来、人間の裏側の姿を知って重い不眠症になった。高校生から大学生になると酒を飲んでごまかしていたが、酒が無いと眠れなくなりアルコール性肝炎になった。その上、私は完全主義の性格があったので、アルコール性肝炎と同時に細かなことにこだわりすぎて鬱病を併発した。

 鬱病は別名「英雄病」とも言われ日本人では五木寛之、黒澤明、田宮二郎らがいる。鬱病は落ち込んでいるときは大丈夫だが、元気になると突然自殺をする。

 私が大学院を修了して郷里に帰ったとき、可愛がっていた愛猫が車に引かれたのがきっかけとなり、ペットロスから鬱病になった。そのころ私は学習塾を経営して、一人で80人ほどの中高生を教えていたが、突然簡単な暗算や移行が出来なくなり、テレビを見ていても画面酔いするようになった。

 たまたま隣町に当時は珍しい心療内科が出来たので、行くと主治医が顔を見ただけで

 「貴方は鬱病なので当分通ってください」

と言われた。何故顔を見ただけで分かるかと言うと、鬱病になると、水泳をした後にプールサイドにやっと上がった人のように疲れ切った顔をしているという。心理学者で有名な犬丸四方によれば捨てられた観音様のような、タレントで言えば山口百恵のような顔をしている、と書いてあった記憶がある。

 そこで鬱病の薬を貰うとともに、週に一度ユング派のカウンセラーにかかることになった。この人は、前歯が折れ、破れたジーパンを履いていたので、この人にカウンセラーが務まるのか不安だったが、意外にも名カウンセラーだった。一番最初に言われたのは、

 
「私は因果論を語りません。結果的に鬱病を治します」

そこで、

 「因果論を語らないと鬱病になった理由が分からないのではないですか」

と質問すると、仮に子供が車にひかれて亡くなったとしましょう。そのせいで鬱病になったお母さんが

 「なぜ私の子供が亡くなったのですか?」

と聞かれても、雨の日に傘をさして歩いていたら風が吹いてきたのでそれを取りに行こうとしたらたまたま車が走って来たからです、と因果論を話しても解決しません。分かることは

 「自然は人間の営為に無関心だからです」

と言われた時にこの人はただものではないと分かった。そこで面白い治療が始まった。カウンセラーは毎回


「貴方は自分のやったことが100点満点でないと自分を責めるでしょう。しかし人間は50点でかまいません」


 「私は毎回、50点では気が済みません。せめて80点は取らないと自分が許せません」

 この問答が毎回繰り返された。それが延々と続くので私がそのカウンセラーに

 「先生、毎回同じ話をしていても飽きてしまいます。別の話にしませんか?」

と言っても

 「頭で分かるのと体で分かるのは違います。貴方が本当に50点で自分が許せるようになるまでこの話を続けます」

と言われた。恐らくこの問答は半年続いたと記憶する。

 またこれも鬱病に付随する病気だと思うが、人前に出ると恐怖心に駆られ心臓が止まりそうになる対人恐怖症もあった。これはカウンセラーが、

「簡単に治ります。最初は10人の前で話しなさい。慣れてくると20人の前でも話せるようになります。段々慣れてくると相手が何人いても話せるようになります」

と教えてくれた。これは行動療法と言われるものだが、この助言のおかげで今では相手が50万人いても話せるようになった。

 私が指導教授から君を必ず教授にするからまた東京に出てきて非常勤講師から始めないかと電話がかかったとき、カウンセラーは引っ越しは心に負担がかかるので今は考えた方がいい、と言われたが私は学習塾を畳んで東京に戻ることにした。そのカウンセラーは不思議な人で今でも突然メールが来て、調子はどうですかと聞く。私が本当に鬱病が治ったのは座禅をするようになってからだ。

 初めて座禅を組んだ時、(いつも考え事ばかりしている性格なので)、何も考えずただ座っていると、まるでサウナから上がって冷水に飛び込んだような気がして頭がすっきりするようになった。

 さらに座禅を続けていると、所謂「見性体験」という覚醒体験、意識の変成体験が訪れる。その一回目の見性体験から瞬間にして鬱病が治った。

 この虐めっ子が逆にウラバンになった話は是非とも子供に教えてやって欲しい。鬱病が見性体験で一発で治った話は誰も信じないだろうが、座禅を組み続ければ分かるようになる。個我の中に如来の心が入って悩みがあっても般若波羅蜜多の知恵で最善の答えが一発で分かるからだ。

 あのカウンセラーがまたメールをくれたらこの話をしてみたい。ユング派は東洋思想から逆輸入された思想なのであのカウンセラーならこの体験を必ず信じてくれるだろう。